昭和40年09月30日 夜の御理解



  神様のおかげを受けておると言うこと。それは話を聞き、道理を聞かせて貰えば、成程神様のおかげを頂いておるんだ、神様のおかげを受けなければ立ち行かないのだと言う事が分る。けれども教祖の教えて下さる、特別信心さして頂く者の上に、信者氏子とこう呼び掛けて下さるには、神様のおかげを受けておると云う事だけではなくて、特別の御守護を受けておる、特別のおかげを頂いておると云う事。
 その事が分からして頂かなければ、私は本当に有り難いと云うものは生まれて来ないのではなかろうかと思う。誰にもおかげはやってあるとこう仰る、その誰でも頂いておるおかげと、本当に天地のお恵みで天地の恩恵の中にこうやって人間はお生かしのおかげを頂いておるんだと、云う事が分かるんですけど。成程そのだから感謝の念を持たなければいけないという、感謝の念。
 信心さして頂いとれば、特別取分け教祖の神様の、お取り次ぎによって、信者氏子と呼び掛けて下さるだけの、おかげと云う物がです頂けると、又そういう御守護の中にあるんだと云う事が、分からして貰うから。いよいよ、そういう実証的なものがあるから、言わば、真に有り難いと、信心さして頂いてると云う事が、取分け又有り難いと、云う事になるんだと私は思うですね。
 ですから私その点、椛目の場合なんかは、その実証的なもの、おかげを受けておるんだなあと言う、その実証的なものを、そのいろんな場合に感じる事がでける。心の耳を澄ましておけば本当に神様が特別の、お働きを下さっておるんだなと言う様な事が感じられる。今日、夕方あの、子供達が一番下からあの二人の栄四郎と幹三郎が、上の方で今日、餅蒔きがあつた。あの棟上げが、あったんですね。
 それで夕方これはあがり前でしたがあのう、二人とも汚れまわってから、あの餅を拾いに、行って帰って来た。で私が丁度、風呂入っとるとこへ手を洗いに交互に参りましたから、幹三郎が先でしたから、「幹三郎君、今日はお餅いくつ拾た、」ち「僕はわざわざ数えよりました。僕は十六拾うとる」ち。それから栄四郎が来ましたから、僕は幾つ拾うとるか「僕も十六拾うたと」こういう。
 私はねそういう何気ない子供達の遊びの中にでもね。特別の椛目の子供と云う訳ではないけれども椛目の、まあ信心を頂いてるものの子供として特別の御守護を受けておるなあと云う事を、その中から感じるんです。ハハアーなるほどなあ、本人たちは何気ないのだけれども、十六といや椛目の、お日柄の日です。御大祭が十六日です。そういうそのお日柄、そういうご守護の中に受けておると実証的なものが。
 子供達が遊びにいっとっても、餅を拾いよっても神様の働きの中に、特別おかげを蒙むっておると云う事を感じぇずにはおられんと云う事です。今日、ある方が朝ご祈念が終った後でした。親子で、お参りになって、明日のお祭りのお供えと同時に、今月いっぱいで御造営費の、おかげをお願いをしておっただけの金額が丁度今日、開かして頂きましたらきっちり、お繰り合わせ頂いとりましたから、というて親子で、お供えに持って見えられました。それが矢張り、相当大きな金額なんですね。
 始まってこの方三十万程お供えして、三十万お供えしてあった二回に分けて。そこでその百万以上のというお願いがしててあったこの九月一杯に。所が今日開かせて頂いたら、後が七十万と三千円あったと。それは勿論親子の全部の財布をたたいてから、七十万三千円あった丁度百万のおかげを頂いて、もう惟が私の今日の私の言うなら、ありぎりのお金で御座います、というて親子でお供えに持って見えた。
 あらおかげ頂きましたと。もうそう言う様な事にもですね、成程この実証的なものを感ずるんですけども、それをもう一つもう一つ実証的なものがあるんです。昨日はご承知の様に、生誕祭で敬親会の方それからー般信者の方達も、景品が福引きがありました。その一つ一つがです、ああ云う事も椛目の言う私が実証的なもの、本当に間違いのないその人その人、一人一人がそのきちっとした、おかげを頂いておると言う事。
 神様そういう特別のおはからい、御守護の中にあるんだなあと云う事を感じずにはおれないと云う様な中に終わらせて頂いた。後がくじが六、七枚も残ってたんだろうねだから朝の御祈念にお参りして、お日参りの方達で朝から参って来る最後まで私は引いて貰う為にそこに置いとった。それでその方息子さんは、昨日参って来てましたけれども、お母さんが参って来ておりませんでしたから、お母さんに引かせた所がですね。
 その先生私丁度百番に当っとりますて、いやあおかげ頂いた、百万の百にぴってりこう、こうあう訳なんですねえ。しかもですその次にです、もう間発をいれずある人が参って来た、そしてその人が引かして頂いた所が、もうこれが先生おしまいで御座います、いやあ私はおかげ頂いた、もう何もちょっと遅っかったら頂かれんのだったというて、お母さんそこで喜んで御座るんですよ。
 そしてそのこの方に対するご理解じゃないけれども、最後のその人のご理解にですね、どういうご理解どういうご理解じゃったかと私が言うたらの、その方お供えとおかげは引き替えではないと云うご理解だった。はあおかあさんが真剣に、こうしてから考えてるんですそれ聞きながら。やあ家も百万円もお供えしたけん、おかげ沢山頂くじゃろうなんて云う様な信心が、その息子さんは熱心に致しますけども。
 お母さんはさほど参らん、月、何遍しか参ってこんという程度なんです。けれどもそのあまりに、はっきりしてるでしょうが。実に実証的である。丁度百万のお供えをさして頂いたら丁度百番の籤を引き当てた。しかもその次の人が、もう本当によその場合なんかはですね、まあそんな事はないかも知れませんけれども、金の十万でも特別お供えするちいうなら、さあ裏にどうぞというてから、それこそ特別献立のひとつも、してから、お茶を上げたり、ご飯をあげたり、まあ特別にする様な教会ですらあります。
 金光様のご信心は、どんなにお供えをさせて頂いても、お釣りはご神米一体だとこう言われてるけれども、椛目の場合なんかご神米一体すら下らんのですから。今日親子の方達が見えても、私ご神米も何も下げませんでした、只お取り次ぎさせて頂いただけの事、けれどもですそれを神様が受けておって下さる。神様が受けて下さっておると言うその、実証的なものがあるから、有り難いでしょうが。間違いなし私共親子のもの思い真心と云うものを神様受けとって下さった。
 そこに例えば汚いそん代わり、この次ぎにはいっちょ大きなおかげば頂かにゃんと言った様な、もし不純なものがこれにあったんでは本当な事になりませんから、さあ次ぎにこの人に云う訳にはいかん。ですから次ぎに参って来た人に対する、その籤を開いた所が、お供えものとおかげはひっかえではないと云う事が書いてあるから、そうじゃった神様が受けて下さってさえおりゃもう、これでよろしいんだという実感。
 そういうご守護の中です、私共にちにちじょう、信心の稽古をさして頂いておるのである。私今日これを、まあしきりにそれを思って、先生方にお話しした事で御座いますけれども、親鸞の信仰と教祖の歩かれた道が、非常にこの、人間教祖とか、人間親鸞という意味合いにおいて、よく似かよった点があるけれども、根本的に違った物を、私は今日は感じたんですけれど。
 親鸞は、もう実証を云うたら信仰じゃない様に言うておられますですね親鸞は。そりゃ自分としてもです、実証的なものを受けたいと云うので、あの六角堂への百日間の参籠と云うのがあったんですね親鸞は。難行苦行されたんです。いわゆるその、おかげの実証といった様なものが、を云うたんでは、もう信仰ではないと、おかげは頂かなくても、ご利益は頂かなくても、とに角南無阿弥陀仏を唱えれば、どういう悪人でも助かると云うのが親鸞が唱えた、もうその焦点であった信心の。
 どんなに悪人であっても、どんなに漁師、狩人、どういう殺生な商売をさして頂いとるものでも、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏唱えてさえおれば極楽行きは間違いがない、善人ですら助かっておるのであるから、悪人においておや、と云う様な、言わば、唱え信仰の、そういう唱え方がです、その時代の、大衆にアピールした訳なんです。ねえ、誰でも助かりたい、その当時の信仰と言うたら、もっと今よりも程度の低いものであるであろうと思うんですけども、いわゆる地獄極楽を信じた時代。
 自分の様なえげつない商売をしとるものは、もう地獄極楽行きは出来まいという思い込んでおった。坊さんなんかでも、もう家内ども持つたら、それこそ、それこそ坊主、言わば破壊坊主としてから世に受け入れられない時代にです、家内を持つても良い、生臭気も食べても良い、こういう例えば悪人であろうが狩人であろうが漁師であろうが、南無阿弥陀仏さえ唱えておりゃ極楽行きは大往生の間違いないと言う様な、その一つの宣伝がですね、皆んなに受けたんです。
 そんなに人間というものは極楽行きを言わば願つておる心があると云う事、成程、その教学的に理屈で云えば、そう云う事になるんです、本当に善人でさえ助けて下さるのであるから、天地の親神様は、言わば悪人なら尚更助けて下さるんだと云う、これは確かにそうなんですけれども、その悪人が悪人を悟つた時です、助かるのは。私のような大悪人があろうか、私の様な恐ろしい人間があるじゃろうか、なんと私は巡りの深い私は罪深い私であるだろうかと、いわゆる相済まん私であると親鸞は。
 そこを分かつたんだけれども、ー般はそこまで徹底してない只、どんな悪人でも南無阿弥陀仏さえ、唱えておれば助かると云う所にです。その、あの宗教の、いわば魅力があつたんです、ところが。親鸞その人の心の中にもです、ご自身大悪人を悟れたんですけどです、そこに矢張り実証を求められたのではなかろうかと私は思う、求めたのはそれはほんな信心ではないと、こう言うておられる所に。
 九十幾つになられてから亡くなられる迄です、今まで自分が唱えて来た事を、自分が言うて来た事は、みんな空事だと云うておられる。人間と云うものはそんなもんじゃない、やつぱりおかげを求めるのが人間だと云う様な意味の私は詳しくは解らんけど、そんなもんじゃなかろうかと思う、その点教祖の神様の信心と云う物は、私がここで頂いとる信心と云う物は、もう実証がなかつたらむしろそれは。
 信心じゃないと私は云うて来ておる、それは修養、道徳、とそう云う様な物から、ー歩もそれに勝つた物はない。信仰さして頂いて世界中の氏子に、おかげはやつてある、というおかげではなくてです、信者氏子に特別呼びかけて下さる、その信者氏子としての特別の御守護、例えば子供の餅まき、餅を拾いに行つた中にでも特別の御守護を、受けておる、それは沢山拾うとか拾わないとかそんなことじゃない。
 けども特別の御守護を受けておるという実証を見せて下さるのである。百万のお供えが、でけたといやあ百万の言わば、籤を引く様なです何とはなしに自分の今日のこれを、神様は受けて下さつたんだという、そういう喜び実証的なものがあるから、お供えして、その上に又有り難いのである、というて片一方にはお供えを沢山したから、おかげは沢山頂けると言った様な事に限つては、おらんぞといいながらです。
 その神様が受けて下さつておる。下さつたという、その喜びが今度の次のおかげにならんはづは絶対にないです、金光様の信心はそこが有り難い、椛目の御信心頂いとる方達は、そこん所が私は有り難いと思う、私は宗教にもし実証的なものが中つたら、それはむしろ、おかしいんだと私は思う、おかげがなかつたら、御利益がなかつたら、しかもそのおかげが御利益がです。
 あの世までも継ながつておると云うものであると云う事。何時も神様の信者氏子と呼びかけて下さるだけにです。特別のおかげ以上のおかげというものが絶えず私どもの身辺に感じられる、そこに私ども日々にです、天地の御恩恵の中にあつて有り難いと云う。これが本当に実証的なものを頂くから、いよいよ天地の恩恵の中にあると云う事が、ひと掬いのお水の中にでも、ひと粒のお米の中にでも。
 有難う御座いますと云うものが実感的に涌いて来る、それを真に有難いと教祖は仰っておられる。その真に有り難いと云う心が、おかげの受けものだと本当に、まあおかげを頂いてから百万の、お願いをしておつたら、今日ちょうどギリギリこの月末までに、百万と三千円だけの、お繰り合わせを頂いておつたと云う事が、有り難かつただけではなく、それを受けて九打差つた印の様に。
 百番を引きあてたと言う様なところにです。神様が受けて下さって、おるんだなと云う喜びがです、その喜びが、次のただいまの親子の上に、おかげが頂けんはずが、絶体にないと云うことになる。というて、それは求めてはならない、でなかつたら、沢山お供えしたものは、たくさんおかげ頂くと、云う様なことになつたら、これはどうも、そこ辺そうだったらおかしい。
 そこのにきが、なんともかんともいえんふんいきの中にですね、神様はおかげ下さることが解るでしょう。お互い、日々信心さしてもらう、今日一日の中になるほど、神様の御守護を受けておつたんだなと、云うことを実感さして頂けるだけの、信心をいただくために、何時も心の中に、神様とともにあると云う、同行二人の信心がです、なされ続けていかなければ、ならんと思うのです。
   どうぞおかげ頂きます様に。